ぶらり訪問記 No.015

訪問先:
高野山真言宗 海心寺

今回のぶらり訪問記は太鼓チームではなく、あるお寺を訪問させて頂いた。

福岡県福津市の宮地嶽神社の近く、光の道の参道沿いに位置する高野山真言宗 海心寺である。

ご住職の吉原泰祐師とは45年ほど前に音楽のご縁で知り合い、今日までの長きにわたり古き友人としてのお付き合いをさせて頂き、また弊社 西日本楽器を精神的に支えてきて頂いた寺院でもある。

ご住職 吉原泰祐師は1997年5月アメリカ・ニューヨークにある音楽の殿堂と呼ばれるあの有名なカーネギーホールで「曼荼羅(まんだら) 、森羅万象(しんらばんしょう)ハーモニーと銘打って日本独特の仏教音楽である金剛流ご詠歌及びご詠歌に振付をした宗教舞踊の公演をプロデュースされた前代未聞の経歴の持ち主でもあり、このような形態での公演は、おそらく世界初の試みであろう。

その10年後にはバリ島の国王の御前にてご詠歌、宗教舞踊の公演を行い日本の宗教文化を海外にも広く知らしめ国内においても各地で公演を行い宗教音楽及び宗教舞踊の普及活動に貢献された。

今年で御年81歳、とにかく声がすばらしくまさにテノール歌手のような方で、温和で優しくとてもユニークなご住職である。

また、ご住職の奥様も宗教舞踊の指導者として後進の指導に携わり宗教舞踊の普及に大きく貢献されておられる方である。

昨年2023年12月にはオーストラリア、ウィーンにおいて、吉原住職と共にご詠歌を研鑽されている飯塚観音寺御住職古賀一弘師を中心に、六十数名の青年僧侶がクラシック音楽の聖地であるウィーン学友協会大ホールにてご詠歌、宗教舞踊の公演を行った。

この公演は古賀師の息女弘美さんがウィーン国立音楽大学に留学されておられる縁で実現したものである。
このホールはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地として知られ毎年ニュー・イヤーコンサートが行われているあの有名なホールであり別名「黄金の大ホール」とも呼ばれている。

このウィーンでの公演においては吉原住職が体調を崩され海外公演が無理だったため、奥様だけがこの公演に参加され、宗教舞踊を舞われた。
この公演には京都仁和寺の瀬川門跡猊下も参加され見事に成功して大絶賛された。おそらくこの東洋の神秘が言葉の壁を越えて海外の方の心に直接響いたに違いない。

お寺について少しお話をしてみたい。
このお寺は音楽や伝統芸能に関わる方にとっては他に類を見ないパワースポットであり、知る人ぞ知る全国でも珍しい寺院である。

大師堂を拝見させて頂くと堂内中央には弘法大師坐像が祀られ、そして脇には金剛歌菩薩(こんごうかぼさつ ※注1)と金剛舞菩薩(こんごうぶぼさつ ※注2)が安置されている。

金剛歌菩薩と金剛舞菩薩が2体並んで安置されているのはとても珍しく、今まで絵画では見たことがあっても実像を見ることはなかった。

金剛歌菩薩は宝冠をかぶった坐像で阮咸(げんかん ※注3)という楽器を持っておられ、もう1体の金剛舞菩薩も、舞を舞っておられる坐像である。

オペラに例えると、弘法大師が主役のテノール歌手で歌を歌い、オーケストラピットで歌菩薩が音楽を奏で、周りで舞菩薩が舞を舞っているというとても珍しい今までに見たことのないユニットである。

しばらく大師堂に佇んでいると、どこかの音楽ホールにいるかのような、また今にも音楽が聞こえてきそうな錯覚と、そして心の安らぎを感じてしまう不思議な空間であった。

~・木谷の独り言・~

この大師堂に安置されている音楽の菩薩様の前で篠笛のコンサートを行ってみたくなってきた。太鼓も入れてみたい。献笛もいいね~。滾々と夢がわいてくる。

是非ご住職と相談してLiveを計画してみたくなってきた。

是非実行してみたい。

高野山真言宗 「海心寺」

福岡県福津市宮司4丁目29−25

1923年、海範和尚が津屋崎町東町に草堂を建立し、高野山本覚院より弘法大師像を勧請して本尊としたのが始まり。1955年、二世・勉和尚が奈良・信貴山より毘沙門天を勧請し、飛び地境内(現在地)に毘沙門天堂を建立。現在では、飛び地境内に建立した毘沙門天堂が活動拠点となり、津屋崎町東町の境内の方は奥の院になっている。

※注1) 金剛歌菩薩(こんごうかぼさつ)

箜篌(くご=ハープのような楽器)を持ち歌をもってマンダラの世界を彩る仏様
真言:オン バザラ ギテイ ギク

※注2) 金剛舞菩薩(こんごうぶぼさつ)

舞踏をもって喜びを表し マンダラの世界を讃える仏様
真言:オン バザラ チリテイ キリタ

※注3) 阮咸(げんかん)という楽器

現在、奈良の正倉院宝物殿にのみ現存しており螺鈿紫檀阮咸(らでんしたんのげんかん)と呼ばれている。
螺鈿紫檀阮咸は、円盤形の胴部と長い頸を持つ4弦楽器で『国家珍宝帳』記載の楽器である。
胴は円形で平たく、中央には円く革が張ってあり、この胴に棹がたてられ、絃は四本、柱は14個ある。

阮咸は「秦琵琶」とも呼ばれ、中国固有の楽器。伝説によると、秦始皇帝のとき万里の長城を造る人夫の苦労を慰めるために作られたものと言われている。
後の晋の時代、戦乱の世情を嫌って竹林に入り音楽を奏でたり、酒を飲んだりで清談を交わすとういう竹林の七賢人と呼ばれる人々がいて、その賢人のひとりに阮咸(げんかん)という弦楽器の名手がいた。得意の楽器は、琵琶と呼ぶこともあるようだが、この丸い形をした弦楽器が後に名手阮咸の名をそのまま受け継いでいると言われている。

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